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城メモ 兼 肥後加藤家周辺メモ

初めに

肥後加藤家およびその家臣団関係メモ。

彼らの城郭普請へのかかわり方に興味あり。
誰が、どれほど、どこの普請に関わってたのか、とても知りたい!

何かありましたらツイッターかコメ欄にお願いします。
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kuro


▼肥後加藤家関係史跡マッピング中

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  1. 2030/08/26(月) 00:49:20|
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氷川町の〝飯田角兵衛の墓"

「竜北町の遺跡地図」に載ってる「飯田角兵衛の墓」を確認してきました。
結論から言うと、清正家臣の飯田角兵衛直景とは別の方のお墓だった模様。遺跡ウォーカーさんにも「飯田角兵衛の墓」として位置情報が登録されてるので、参考程度にメモしておきます。


常桂院○信居士
飯田角兵衛清貞
十月五日


<<参考>>
「飯田系図」より
安昌院殿天岳宗運居士
飯田覚兵衛直景
寛永九年九月十八日

正運寺(平成肥後国誌より)
  欣浄院殿正誉天岳宗運大居士
  寛永九年九月十八日

案内して下さったおじい様は「飯田○屋さんのご先祖じゃろ?」と仰ってた。最近ご子孫方が墓参りにいらっしゃってたらしい。へ、へぇ…。
  1. 2013/04/27(土) 00:12:49|
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熊本城の築城関係史料1(書簡編)

熊本城築城の流れを掴む為の自分用メモ。書簡関係編。
熊本城に関係ありそうな部分を「新熊本市史-史料編近世1」からひたすら抜粋。
次節以降、「編纂史料」編、「遺構・遺物」編・「関係論文」編と続く予定。

※注意:史料読みもズブの素人なんで、とんでもない部分引用してるかもです(支城や公儀普請関係の文書も混じってる可能性あり)
誤字等含め御指摘ありましたら教えてくださいませ。

※追記
メモ:慶長11年の史料(22)、(23)は駿府城助役普請関係の可能性あり?

(1)天正一六年 後五月十五日 
豊臣秀吉朱印状 加藤清正宛 (天理大学附属天理図書館蔵)
(前略)
於肥後国領知方一廉被作拝領、隈本在城儀被 仰付候条
後略)


(2)天正十七年 十二月廿九日
加藤清正書状 加藤興三右衛門尉宛 (庄林文書)
(前略)
次来春東国へ之御出勢弥必定候、然者可取立之由可得 御意候、内々陣用意之儀可仕候、自然不出陣候者、普請之儀可申付候、何篇先日申遣候日限よりも普請可仕候、万事不可有由断候、恐々謹言


(3)天正一八年カ 二月廿六日
加藤清正書状 九鬼四朗兵衛・飯田角兵衛・下川又左衛門・近藤四郎右衛門・寺田篠介・山内甚三郎・組頭中宛 (広島大学所蔵猪熊文書)
態申遣候、此方軈而上着候、可心安候、仍其元普請之儀無油断、磊・掘念を入可申付候、万事如申置候、不可如在候、猶追々可申下候条、不能巨細候也、謹言


(4)天正一八年カ 四月廿四日
加藤清正書状 下川又左衛門宛 (中沢広勝氏蔵文書)
(前略)
態申遣候、先度のもんとう具、少もいそきのほせ候へく候事、
(中略)
一 はた(波多)へ申遣候さいもく(材木)の事、少もいそき可申候事、
一 其元石くら并ニ作事なと、ゆたん候ましく候事、
一 本丸ニおうへたて可申候、ざいもく用意させ候ておき可申候事、
一 てんしゆ(天守)へ之はし(橋)出来候や、さ候はヽ大川のはしかけさせ可申候事、
一 かうさく方之事、
一 おうへかたへしよさい候ましき事、
一 爰元ふしん大儀ニ候て、下々まてしんらうをさせ候間、其元ゆたんくせ事たるへく候、大物入ニて候間、万事其心へ尤候事、かしく


(5)天正一九年カ 八月六日
加藤清正書状 下川又左衛門宛 (下川文書)
猶以、彼材木のかたへ、奉行ニ田原ニ郎八を可相遣候、七大夫ものも上のりとして相添可遣之旨、可申遣候、
追而申遣候、其許諸侍自分之普請、家やしきをもしなをし候へと可申付候、やしきなといまた不遣候もの共も材木をこしらへ、我ら下国次第、早速ニつくり候やうに可得其意旨申付候、己上、(中略)
一 たつミの矢蔵下屋ニ、久兵衛代官分の米可納入之事、付、長蔵之北ノ一間を久兵衛・小右衛門尉ニ相渡、借米を可入置事、
(中略)
一 只今西之丸ニ立させ候蔵一間、善介に可相渡候、
(後略)


(6)天正一九年 八月一三日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (渋沢栄一氏蔵文書)
(前略)
其元作事之儀、清正下国前ニ悉出来候様ニ入情(精)可申付候、又広間作事、当春大工共ニさしづをさせ候ことく、木こしらへ候て可置候、冬中ニ出来候様ニ可申付候、少も油断候てハ可為曲事事、


(7)天正二十年カ 九月廿一日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (西村清氏蔵文書)
おほへ
(中略)
一 其元さふらいまち(侍町)、さうかまへのへいかけさせ、きとよろつ丈夫ニ可申付候、はしおも大工用意してかけさせ可申候、本丸又ハ其方まへの石かきのへい、何もかけさせ可申候、おもての門やくらの下之はしを、いかにもねんを入かけさせ可申候事、其元之さうぢ少もゆたんあるましく候事、
一 新左衛門煩候由申越候つる、いかゝに候や、煩よく候はヽ、かさねて煩候ハぬ様に、万せいを出させ候事無用ニ候、大かたの作事の用すはかり申付、ふしんふ行(普請奉行)ハミなみなねんを入可申付候、ミなみなゆたん候ゆへに、新左衛門めニきつかいをさせ、しんらうをかさねさせ、わつらわせ候間、かさねてわつらわせ、ミなみなか、ふしんふ行せいはいすへく候間、何之ふしんニハたれか内之たれとゆう事を、ねんを入かき付候て、大長(帳)ニしるしおくへし、此旨ちかへ候ハヽこ方くせ事たるへく候事、
(後略)


(8)文禄元年カ 十一月十二日
下川兵大夫書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (個人蔵)
(前略)
将又御城本丸おうへの御作事、度々被 仰遣候、きと出来候様ニと被成御意候、可被成御書候へ者、拙者より可申入之旨、御掟ニより如比候、恐々謹言


(9)文禄二年カ 六月朔日
加藤清正書状 下川又左衛門宛 (下川文書)
(前略)
一 此中仕かけたる屛・矢倉、何も作事かた之儀由断有間敷候、先度大かた申渡候つる御茶屋・御泊并隈本御座所、入間敷躰と爰元へハ相聞候条、於其辺承合、可随其事、
(後略)


(10)文禄二年カ 十月廿六日
加藤清正書状 中川重臨斎・下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (下川文書)
尚以大材木者大か引ニ可引候、小引なとハ小引をこしらへ、手伝之者ニ可申付候、惣別あなほり以下ことごとく見合、手伝之者ニ可申付候、己上
追而申遣候、去々年相詰候大工・大鋸引書付差戻候、其許参着候而十日やすませ候て、城中作事可申付候、新左衛門尉ニ相談、作料可遣候、則大工拾三人・大か引五丁差戻候、其許普請可差急候、若由断候者可令成敗候、城中之家共、手分を仕り可申付候、大ごミに仕り候者、手きわあしく候ハん間可得其意候、大工手間思ひの外入候者可為曲事候、京都以来爰許にても作事申付、悉相覚候間、得其意入年可申付候、尚重而可申遣候、謹言


(11)文禄三年 三月十二日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門・中川重臨斎宛 (速見真曹氏蔵文書)
(前略)
一 又左衛門尉まへのやしきの方角、同四方のけん并馬やをたて候由候、馬やのけん、あつきかミニ地わりをよくよく仕候て、こすへく候、此方にて指図をし候て可遣候間、家をたて候用意候へく候事、
一 其方より差越候大工参着次第、此方の大工もとすへく候、門・矢倉ノきわ・小殿主ノひろま出来候ハヽ、其ニかい三かいまて留守中ニしたて可置候、又本丸ノ北ノかわノやくら、同北かわ(側)さかり候て見え候間、こわし候て仕直へく候、いつれも塀・矢倉・本丸の家共、もり候ハぬやうニ可入情候、万手代之事ハ両人申付分、其外留守居の者、諸代官それそれニしたかひ可申付候、留守居之者共、別ニ隙の入事も有之間敷候間、夏秋の間ニ、留守居諸代官として、又左衛門尉やしきのおもてかわ、ほりをほり、どいの分、石かきニ可仕候事、
(後略)


(12)文禄三年カ 十月廿五日
加藤清正書状 中川重臨斎・下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (下川文書)
(前略)
一 城中作事之儀如前々可相立候、材木作事手伝仕候事も、前より悉入念如何様も結構ニ可仕候、おうへの小殿主のなをし所、大工甚三郎ニ申付遣候間可得其意候、尚重而可申遣候、謹言


(13)文禄四年カ 十一月廿一日
加藤清正書状 中川重臨斎・下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (下川文書)
(前略)
一 其許作事方、如何程手付候哉、小殿主、其外小広間なと、前々より結構入念可申付候事、
(後略)


(14)文禄四年カ 十一月廿八日
加藤清正書状 下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (高林兵衛氏蔵文書)
(前略)
一 其元さうかまへのへい、そこね候つる間、るすいの者、又ハ今度ち行を遣候者共ニ申付候て、かけさせ可申候、
一 あまくさ瓦、小座敷之瓦可申付候、のこる瓦共ニハはしらなとこしらへおき可申候、はるへ成候て、少かきあけさせ候て、さてへいを可申付候事、
一 城中どだい□(へい?)のふしんハ何も可申付候事、
(後略)


(15)慶長四年カ 三月廿五日
加藤家重臣連書書状 (下川文書)
尚以名之下に可有御判候、
急度令申候、御給人方人足被遣候事、去年御帰朝之刻、被成御停止候、則各へ申渡候、然処、今度御城御普請百姓相見候様申候、何と被仰触候哉、沙汰之限候、急度御改候て可承候、恐々謹言


(16)慶長四年カ 三月廿六日
加藤清正書状 加藤喜左衛門・加藤美作・加藤清六・中川重臨斎・下川又左衛門・中川唯玄斎宛 (下川文書)
(前略)普請各同前可申付候、(後略)


(17)慶長五年 十月廿四日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (京都大学文学部博物館蔵)
(前略)
次又左衛門尉立候ひろま并小台所可差急候、かべなとぬり候事不成候者いかやうにも付て、先畳を敷候様ニ可仕候、如水御通候刻振舞度候、謹言 


(18)慶長五年 十月廿六日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (中澤広勝氏蔵文書)
(前略)
一 如水其元被通候者、新城ニ而振舞候て可然候間、得其意、天守之作事差急、畳以下可取合候、小台所たて候へと申付儀ハ、こもはりにても不若候、小座敷之畳をも仕合候へと可申付候、猶追而可申遣候、
(後略)


(19)慶長五年 十一月十八日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (群馬県立歴史博物館蔵)
(前略)
其元普請之儀不及申候へ共可指急候、へいを塗候之事ハ相やめ、うらおもてより、こもにてつゝミ可申候、謹言


(20)慶長九年カ 七月十日 
加藤清正書状 石川備後宛 (名古屋市博物館蔵)
(前略)
次其元作事出来之由承候、誠ニ精ニ被入候故と令満足候、
(後略)


(21)慶長十年カ 八月八日
加藤清正書状 飯田角兵衛宛(猪熊信夫氏旧蔵文書)(市史研究くまもと第5巻 森山恒雄「肥後加藤政権と重臣飯田角兵衛(-)」より)
為在洛見舞、使者指上せ、殊銀子壱枚到来、祝着之候、其許普請之絵図指越候、被見候、頓而令下国候間、可得其心候、謹言、



(22)慶長十一年カ ニ月十七日
加藤清正書状 飯田角兵衛宛 (個人蔵)
 就祝言之儀、鰹十連到来祝着候、其地普請番等無油断之由尤候、以情を入可申付事肝要候、猶吉村勝太可申候、謹言


(23)慶長十一年カ 五月廿一日
加藤清正書状 吉村橘左衛門尉宛 (吉村文書)
 為端午之儀、使者を差上、殊帷弐ツ、鰹十連到来悦入候、其元普請皆々精を入、令出来之旨得其意候、弥留守中弥心付簡要候、尚蟹江主膳可申候、謹言 


(24)慶長十一年カ 七月十三日
加藤清正書状 吉村橘左衛門尉宛 (吉村文書)
(前略)此分罷登者共作事等ニ令辛労躰に候、其元普請、皆々可入精事尤候事、猶追而可能申下候、謹言


(25)慶長十二年カ 卯月廿四日
加藤清正書状 並河金右衛門尉・吉村橘左衛門尉・和田勝兵衛宛 (吉村文書)
態申遣候、其地普請如何申付候哉、漸出来之時分ニ候間、様躰無心元候て申遣候、天守之井出ハ、よきほとニ石垣につかへ候ハて出来候哉、様子無心元候、此月相之時分不図可相越候処、いつれも油断仕間敷候、(後略) 


(26)慶長十二年カ 七月廿ニ日
加藤清正書状 中川寿林方・下川又左衛門・土木土佐宛 (下川文書)
(前略)
一 本丸広間之絵、国之絵書迄にてハ遅く候由候、平右衛門尉ハ居候ハぬ哉、平右衛門尉ニ頭取をさせかゝせ、手代之ものすくなく候て、はか不行候ハヽ、上かたより手代之もの呼下可申候、此方へ申越迄も無之事ニ候、国之絵書ニ絵出しをさせ、大事之広間ニ而候に、やくにたち可申候哉、
(中略)
一 花畠作事、留守中番等油断之由尤候、尚追而可申下候、謹言 


(27)年代不明 ニ月八日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉宛 (個人蔵)
(前略)
一 本丸作事、無由断可申付候事、
一 たやへ屋之畳いかにもいかにも念を入さし候へと可申付事、
一 女房達へやの畳おもてかへのなり候やうに、下地ニ念を入候へと可申付候、そさうニさし候て、おもてかへならす候へハ、小利大損モ候間、其心得候て、可申付候事、
一 畳之儀申付候し指図にて、其家の間々の畳さんかうを仕候て、久右衛門ニ合点させ候て、畳之儀可申付候、猶下川善太夫可申候、謹言



  1. 2012/08/23(木) 23:19:03|
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