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城メモ 兼 肥後加藤家周辺メモ

【史料】両角の記述をひたすら集める(予定)

荻生徂徠の「鈐禄」に「石垣ノ名人」と書かれた加藤家の「両角」、飯田角兵衛と三宅角左衛門。
両角の石垣普請やらなんやらに関する記述を只管列挙していく記事。の予定。

「飯田丸を普請・管理した(屋敷をおいた)」とする角兵衛の伝承は現時点では懐疑的に見てるのですが、石垣名人な二人が好きなのでいろんな史料からそれらしき記述をひろっていければいいなーと。


○石垣の名人 (鈐禄)
石垣ハ加藤清正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覚兵衛。三宅角左衛門ヲ両カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云


○忠広の夢に出る二角 (塵躰集。「続・加藤清正妻子の研究」より孫引き)
(前略)かくことのはのさま、ことわりこま〱あり、そのゆへは寛永十癸酉年七月十二日の夜、夢にすきこしむかしの武士の事を 日乗殿午前に先庄林隼人、森本儀太夫、坂川忠兵衛、並河志摩守、飯田覚兵衛、三屋毛角左右衛門、是ふたかくは三人めにいて、いつれも其外多くあつまりゐて、分別事を申しけしきかたりけり、中にも主人をあかまゆる躰にて、ことをゆふけしき、森本儀太夫我にゆふていあり、礼儀成ありさまありと夢中にわか身よく見およふ心ある也、(後略)
忠広直筆の書に登場する「ふたかく」。主論からはずれるけど、義太夫に説教される夢を見る忠広がおかしい。


○清正の廟所普請 (続撰清正記)
先年信州へ行きて、中川入道に尋ねければ、其時の廟所の普請奉行は飯田角兵衛・三宅角左衛門致したるに、萬事の本〆を我仕りたる故、具に知りたる事なり。石の櫃堀出したる時も、右の両人と同道して、行きて見たり。(後略)
中川周防とされる人物の証言。


○角兵衛の百間石垣普請 (加藤家傳)
隈本ノ城ヲ茶臼山二移す。三ノ丸百間石垣ヲハ飯田角兵衛。三ノ丸乾ノ石垣三階ノ矢倉共二森本義太夫築ク。天守ノ棟上ヶ同日。
森本義太夫の覚書を森本一端が浄書して本妙寺に寄進したとされる「加藤家傳」。百間石垣普請に関する記述はあっても飯田丸(西竹ノ丸)普請に関する記述はない。(余談だけど、百間石垣普請に関しては関係した穴太役もわかっていたりするらしい:「花岡佐敷城跡保存整備報告書」所収の「「穴太」再考序説」参考)。

ならばというわけで、飯田丸普請に関する史料を探してみた。
○飯田丸 (安枝氏雑録)
清正公の時の、飯田覚兵衛といふ人は、五千石計の身代にて、御城内、今いふ飯田丸を預かり被居候程の人にて候が、夏は渋帷子一つ、冬は木綿わた入一つならでは、常に著不被申候由、夫程に質素に有之候と也。
今のところ見かけたのはこれだけ…。ざっと見た限り、清正記や続撰~には角兵衛絡みの熊本城築城に関する記述は見つけられず…。
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  1. 2013/04/03(水) 23:26:43|
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