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城メモ 兼 肥後加藤家周辺メモ

頴娃城の天守に関する記載【三国名勝図会】

ツイッターに投げてた頴娃城の天守に関する記載をメモっておく。

三国名勝図会より(巻二四 十九~) 近代デジタルライブラリー(八巻 81枚目~) 獅子城という名で記載
天正一五年、丁亥、左馬介久虎、當城井に五層天守を作り鉄鏈を□稜の四隅に掛け、海颶地震に備ふ、其第三樓を金間と呼ぶ、金泥を施し、韃靼人獵虎の図を書く、其城門延■なる故、其上に重樓を構ふ

天正年間の薩摩に五層の天守…。ちなみに天正一三年説もあるらしい。
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  1. 2013/03/19(火) 19:19:01|
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禅定寺の宇土城移築門に関する記述【新撰事蹟通考】

高麗門禅定寺ハ並河氏カ菩提所なり冠木門ハ乃チ宇土ノ城ノ黒門ナリシヲ氏之請受テ寺ノ門ニ建柱瓦等其時ノ物ナリ破風ノ瓦ニ小西カ紋付ル今ニ残レリ



この移築門は既に廃棄されてるようですが、禅定寺にはそれを写した写真と油絵があるようで。見たい!
小西行長検証会Link
  1. 2012/11/07(水) 00:07:37|
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内牧城普請に関する史料2点

内牧城築城に関する史料に出会ったのでメモ。


慶長九年 十月九日
加藤清正書状 加藤右馬充宛書状
(前略)
将又其元掘普請申付之由尤候、はや寒天之時候間、下々くつをれ候ハぬやうに、大キなる事無用に候、今ほと百姓隙入時分候条、百姓普請なと申付間敷候、
(後略)


七月廿九日
加藤清正書状 吉村橘左衛門尉宛(吉村文書)

急度申遣候、爰元普請畫夜之境もなく申付候、其元も此方なミに、百姓以下を召つれ、内之まきの普請、無由断可申付候、猶右馬充かた迄申遣候間、令談合、諸事不可有油断候、謹言、



  1. 2012/10/30(火) 21:35:29|
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熊本城関係の絵図

熊本城関係の絵図の情報を集めてみた。集めきれてないけど、まだまだ他にもある。城下町中心の絵図は後日追記。

<清正代と推定される絵図>
●熊本城略図
所蔵:山口県文書館蔵 (「定本・熊本城」や北野隆先生の論文に収録)
作成年代:慶長16年ころ?
備考:長門の毛利家が清正没直後(慶長16年6月)に肥後の状況を調査した時の付図とされている

●熊本図
所蔵:臼杵市立図書館蔵
作成年代:清正代??(現在は別の解釈がなされている?)
備考:臼杵藩が豊後街道から熊本城を通って新町に出るまでの道筋を表したもの。北野隆先生の論文を参照(LinkLink)

●肥後熊本城図
所蔵;臼杵市立図書館
作成年代:清正時代??
備考:先行加藤氏屋敷割之図の下絵図として北野隆先生の論文で紹介。(Link)


<忠広代と推定される絵図>
●熊本屋鋪割之下繪圖
所蔵: (「新熊本市史・別編・第一巻上」、「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:加藤代?
備考:寛永9年に入国した細川忠利が、加藤氏代の熊本城図を利用して、自分の家臣に屋敷割を行ったときの絵図。

●加藤氏代熊本ノ図
所蔵:個人蔵(「新熊本市史・別編・第一巻上」に収録)
作成年代:原図は寛永7、8年頃に作成か(嘉永4年以後の写し)
備考:元々の底本は「先公加藤氏屋鋪割之図」。原絵図に記載された屋敷住まいの武士名を、元和8年の「分限帳」と逐一検討し、誤記は訂正されている。


<細川氏入国後と推定される絵図>
●肥後國熊本城廻普請支度絵図
所蔵:- (「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:寛永11年(1634年)?
備考:細川忠利が肥後入国後に、熊本城の改修計画を立て、幕府の許可を求めたときの絵図。

●平左衛門元屋敷家材木覚帳
所蔵:- (「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:寛永14年(1637年)
備考:加藤平左衛門屋敷と西の丸台所を解体するに当たり、それぞれの平面・小屋組みと各部材を記したもの。

●平山城肥後熊本城廻絵図
所蔵:熊本県立図書館(「新熊本市史・別編・第一巻上」に収録)
作成年代:寛文12年(1672年)~延宝3年(1675年)か
備考:曲輪の間数、石垣の高さ・長さ、堀の広さ・深さが示されている。天守から各街道への道筋も朱線で示されている。

●肥後国熊本城廻絵図
所蔵:熊本県立図書館(「新熊本市史・別編・第一巻上」に収録)
作成年代:延宝2年(1674年)以前か

●肥後國熊本城絵図 等
所蔵:- (「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:宝永6年、享保7年、安永8年、天命元年、天命2年、天命4年、寛政2年、寛政8年、文政3年
備考:細川叛が熊本城の石垣・堀等の修理について幕府に許可を求める際に誂られた絵図。

●熊本城天守方御間内之図
所蔵:- (「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
制作年代:寛政10年(1798年)
備考:熊本城本丸・数寄屋丸に建てられていた建物の指図

●城内御絵図
所蔵:- (「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:明和6年(1769年)制作、昭和9年に写
備考:城内の平面を描いた絵図

●御城図・熊本御城紙図
所蔵:- (「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:元禄17年~明和6年ころか
備考:城内の立面を描いた図

●熊本城図
所蔵:永青文庫(「新熊本市史・別編・第一巻上」、「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」収録)
作成年代:文政11、12年(1828、29年)ころか
備考:三枚より構成。各城郭建物を立体的に描写。各建造物の名称も記載されている。

●熊本総絵図
所蔵:永青文庫
作成年代:文久元年(1861年)以降

<参考>
●肥後熊本城之図(日本古城絵図)
所蔵:国立国会図書館
作成年代:不明
備考:Link

<参考文献>
作成年代・備考は以下の文献より
「新熊本市史・別編・第一巻上」
「熊本城 (城郭・侍屋敷古図集成) 」
「定本・熊本城」
各北野隆先生論文
  1. 2012/10/13(土) 20:45:43|
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熊本城の築城関係史料2(二次史料・編纂史料編)

熊本城築城の流れを掴む為のメモ。編纂史料や二次に近い史料編。
現在は誤記・誤伝とされている記述もモリモリ載せているので、留意の上閲覧お願いいたします。

一次史料(書簡)編はこちら

福田家先祖附(定本・熊本城より孫引き)
 先祖福田五右衛門儀、清正公御代より、小山村に居住仕、瓦職人居候處、慶長三年、熊本御城御造營の節、瓦師棟梁役に被召抱、御扶持方被下置候。云々。


肥後国隈本様子聞書(慶長十六年)七月十日 (山口文書館所蔵)
(前略)
一 石かき、惣別から堀まわりのたかさ、廿間ほとの事、
一 天守本丸まわり門六口有之候、御堀ノ門四口可有之事、
一 石かき四面之事、内堀ノ門三方ふさき、北ノ門計明事、
一 つめのほり、以上門三ツ
一 矢蔵数天守共ニはしかゝり、廿三有之事、
(後略)
※萩藩が送り込んだ間者が熊本の様子を記したとされているもの。熊本城の様子を描いた「略図」が添えられている。

肥後国年歴 (「激動の三代展」図録 北野隆「加藤時代の熊本城」より孫引き)
安永八年五月条
乾御櫓修復の処、棟札出ず、慶長七年寅一〇月出丸にて一八棟の末に大黒矢倉出来に付、殿様御出いわい、加藤平左エ門、ニ番手組み棟梁正木治郎、上役斉藤、吉田、林、佐久間、大工迫、大阪玉造与市、芸州宮島彦市、江州伝法新助、玉名八蔵、播州三カ月長右エ門


「大工棟梁善蔵より聞覚控(写)」(寛永10年)(市史研究くまもと第5巻 森山恒雄「肥後加藤政権と重臣飯田角兵衛(-)」より)
とどのさいごのばしょが茶うす山だった。お城がたつとすれば、主しやどうしてん町もこれにでけんといかんけん、さうなってくっとお城の立てかたのぎんみときた、(中略)、町は下津さんが図引き役、御城の図引きのでけ上がった后で、それを御先々代様(清正)がいい田(飯田)、もり本(森本)さんたちとちへ(知恵)をだしあはせて、長んか間、ぎんみをしなはったこつをおぼえておる、


肥後宇土軍記(谷川健一編「加藤清正-築城と治水-」より孫引き)
又云、宇土之天守ハ三階ニて有りしを清正代ニ熊本之城ニ被為引小天守と名付被建置候、今以其通也、宇土之城割レ申時分ニ引ヵ候事ニてハ無之宇土之落城之翌年ニ熊本今之城ヲ取被立候節ニ被為引たると見へたり、此次ニ取立候儀記之可見合也
※肥後宇土軍記:元禄十三年に峯雪子により記されたもの。

加藤清正伝
(前略)将又広間作事之儀、先書に具に如申遣候、無油断仕舞可申越候、並花畠之作事も広間内雑作仕立候へば、申遣日限之時分相仕舞、其時日之役に立候やう可仕候、(後略)
(慶長十五年)卯月十五日          清正印
          大木土佐どのへ
          中川□どのへ
          下川又左衛門どのへ


新撰事蹟通考・巻之十二(肥後文献叢第二巻)
原文にはレ点等書かれていますので、そちらを参考にどうぞ。
(慶長)六年辛丑八月清正榮築隈本城始施縄起鍬(治亂記清正記古城主考)
八年発卯春ニ月十二日己亥 公拝征夷大将軍此日加藤清正叙従四位下任侍従改名肥後守(編年集成)此年隈本城成(治亂記清正記古城主考)
隈本者舊丘阜謂茶臼山成又傅有龍蟠虎踞之形清正嘗相城地於斯山遂拓而爰府城殿館宏壯列奇擁翠縄施微妙之功城究天地之険眞足以當形勢之勝爲萬世不抜之鴻基國自古以來都曾之盛未有過焉者實根本之重地云舊城入其内在西南爲一郭今呼古城又東北本丸之後堡障跡謂千葉城不詳其何此城(古城記于天文十九年)

(宇土城に関する記述)一書ニ云此時堀内右衛門兵衛井上代九郎奉行トシテ城ヲ解崩ス上使中山勘解由ト云同或云隈本城築ノ天守ヲ引テ本丸ニ立宇土櫓と云是也又(後略)

加藤氏触書写
一筆申触候、隈本之文字之事、今度御城出来候に付御改候而、熊本と御書被成候間、此以後其旨可被心得候、此段御領之中不洩様可被申触候、恐々謹言
慶長十二年□月七日
※新撰事蹟通考:細川家家臣・八木田政名が古文書・古記録を基に典拠を明示して編纂したもの。天保11年完成。

藤公遺業記 (「激動の三代展」図録 北野隆「加藤時代の熊本城」より孫引き)
慶長六年辛丑正月江戸え参府ましまし御城を茶臼山へ御経営願済三月御帰国茶臼山開き玉ひ、御自身御縄張有之共八月より鍬初有之、無比類御城御成就に至、御天守一巻の事は赫々たる御経営御要害之事は筆に尽くし難し


肥後国誌
原文(近代デジタルライブラリー)
同(慶長)六年其比ノ隈本城ヲ廃シ(元ト鹿子木寂心カ築ク所今ノ古城也)近邊茶臼山ニ引移サル(此時隈ノ時阝ニ畏ルト云ヲ忌テ熊ノ字ニ改メ解示ト)八月中旬初鍬ナリ(古老ノ説ニハ牟國ノ節鍬初メ合國ノ後城郭成就ト云續清正記云慶長六年八月中旬鍬初云々)其比櫻井紫丹ト云者(連歌師)側ニ侍リテ
 熊本に石挽まはす茶臼山敵にかとふの城のぬしかな
ト狂歌ヲ詠シ清正喜色アリシト云(城ノ西門外今ノ有吉清助屋敷ハ傅奏館トシ東ニ向テ屋上ニ破風アリ是ヲ月見ノ破風ト稱ス天守ノ棟ト同日棟上スルト云フ)同十二年普請成就ス(一説三年目ニ成就ト云)
以下 谷川健一編「加藤清正-築城と治水-」より孫引き
(宇土城の項)熊本城築城ノ後、当城天守ヲ熊本城内ニ引移シテ宇土櫓ト称ス


  1. 2012/08/26(日) 08:28:54|
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