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城メモ 兼 肥後加藤家周辺メモ

熊本城の築城関係史料2(二次史料・編纂史料編)

熊本城築城の流れを掴む為のメモ。編纂史料や二次に近い史料編。
現在は誤記・誤伝とされている記述もモリモリ載せているので、留意の上閲覧お願いいたします。

一次史料(書簡)編はこちら

福田家先祖附(定本・熊本城より孫引き)
 先祖福田五右衛門儀、清正公御代より、小山村に居住仕、瓦職人居候處、慶長三年、熊本御城御造營の節、瓦師棟梁役に被召抱、御扶持方被下置候。云々。


肥後国隈本様子聞書(慶長十六年)七月十日 (山口文書館所蔵)
(前略)
一 石かき、惣別から堀まわりのたかさ、廿間ほとの事、
一 天守本丸まわり門六口有之候、御堀ノ門四口可有之事、
一 石かき四面之事、内堀ノ門三方ふさき、北ノ門計明事、
一 つめのほり、以上門三ツ
一 矢蔵数天守共ニはしかゝり、廿三有之事、
(後略)
※萩藩が送り込んだ間者が熊本の様子を記したとされているもの。熊本城の様子を描いた「略図」が添えられている。

肥後国年歴 (「激動の三代展」図録 北野隆「加藤時代の熊本城」より孫引き)
安永八年五月条
乾御櫓修復の処、棟札出ず、慶長七年寅一〇月出丸にて一八棟の末に大黒矢倉出来に付、殿様御出いわい、加藤平左エ門、ニ番手組み棟梁正木治郎、上役斉藤、吉田、林、佐久間、大工迫、大阪玉造与市、芸州宮島彦市、江州伝法新助、玉名八蔵、播州三カ月長右エ門


「大工棟梁善蔵より聞覚控(写)」(寛永10年)(市史研究くまもと第5巻 森山恒雄「肥後加藤政権と重臣飯田角兵衛(-)」より)
とどのさいごのばしょが茶うす山だった。お城がたつとすれば、主しやどうしてん町もこれにでけんといかんけん、さうなってくっとお城の立てかたのぎんみときた、(中略)、町は下津さんが図引き役、御城の図引きのでけ上がった后で、それを御先々代様(清正)がいい田(飯田)、もり本(森本)さんたちとちへ(知恵)をだしあはせて、長んか間、ぎんみをしなはったこつをおぼえておる、


肥後宇土軍記(谷川健一編「加藤清正-築城と治水-」より孫引き)
又云、宇土之天守ハ三階ニて有りしを清正代ニ熊本之城ニ被為引小天守と名付被建置候、今以其通也、宇土之城割レ申時分ニ引ヵ候事ニてハ無之宇土之落城之翌年ニ熊本今之城ヲ取被立候節ニ被為引たると見へたり、此次ニ取立候儀記之可見合也
※肥後宇土軍記:元禄十三年に峯雪子により記されたもの。

加藤清正伝
(前略)将又広間作事之儀、先書に具に如申遣候、無油断仕舞可申越候、並花畠之作事も広間内雑作仕立候へば、申遣日限之時分相仕舞、其時日之役に立候やう可仕候、(後略)
(慶長十五年)卯月十五日          清正印
          大木土佐どのへ
          中川□どのへ
          下川又左衛門どのへ


新撰事蹟通考・巻之十二(肥後文献叢第二巻)
原文にはレ点等書かれていますので、そちらを参考にどうぞ。
(慶長)六年辛丑八月清正榮築隈本城始施縄起鍬(治亂記清正記古城主考)
八年発卯春ニ月十二日己亥 公拝征夷大将軍此日加藤清正叙従四位下任侍従改名肥後守(編年集成)此年隈本城成(治亂記清正記古城主考)
隈本者舊丘阜謂茶臼山成又傅有龍蟠虎踞之形清正嘗相城地於斯山遂拓而爰府城殿館宏壯列奇擁翠縄施微妙之功城究天地之険眞足以當形勢之勝爲萬世不抜之鴻基國自古以來都曾之盛未有過焉者實根本之重地云舊城入其内在西南爲一郭今呼古城又東北本丸之後堡障跡謂千葉城不詳其何此城(古城記于天文十九年)

(宇土城に関する記述)一書ニ云此時堀内右衛門兵衛井上代九郎奉行トシテ城ヲ解崩ス上使中山勘解由ト云同或云隈本城築ノ天守ヲ引テ本丸ニ立宇土櫓と云是也又(後略)

加藤氏触書写
一筆申触候、隈本之文字之事、今度御城出来候に付御改候而、熊本と御書被成候間、此以後其旨可被心得候、此段御領之中不洩様可被申触候、恐々謹言
慶長十二年□月七日
※新撰事蹟通考:細川家家臣・八木田政名が古文書・古記録を基に典拠を明示して編纂したもの。天保11年完成。

藤公遺業記 (「激動の三代展」図録 北野隆「加藤時代の熊本城」より孫引き)
慶長六年辛丑正月江戸え参府ましまし御城を茶臼山へ御経営願済三月御帰国茶臼山開き玉ひ、御自身御縄張有之共八月より鍬初有之、無比類御城御成就に至、御天守一巻の事は赫々たる御経営御要害之事は筆に尽くし難し


肥後国誌
原文(近代デジタルライブラリー)
同(慶長)六年其比ノ隈本城ヲ廃シ(元ト鹿子木寂心カ築ク所今ノ古城也)近邊茶臼山ニ引移サル(此時隈ノ時阝ニ畏ルト云ヲ忌テ熊ノ字ニ改メ解示ト)八月中旬初鍬ナリ(古老ノ説ニハ牟國ノ節鍬初メ合國ノ後城郭成就ト云續清正記云慶長六年八月中旬鍬初云々)其比櫻井紫丹ト云者(連歌師)側ニ侍リテ
 熊本に石挽まはす茶臼山敵にかとふの城のぬしかな
ト狂歌ヲ詠シ清正喜色アリシト云(城ノ西門外今ノ有吉清助屋敷ハ傅奏館トシ東ニ向テ屋上ニ破風アリ是ヲ月見ノ破風ト稱ス天守ノ棟ト同日棟上スルト云フ)同十二年普請成就ス(一説三年目ニ成就ト云)
以下 谷川健一編「加藤清正-築城と治水-」より孫引き
(宇土城の項)熊本城築城ノ後、当城天守ヲ熊本城内ニ引移シテ宇土櫓ト称ス


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  1. 2012/08/26(日) 08:28:54|
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熊本城の築城関係史料1(書簡編)

熊本城築城の流れを掴む為の自分用メモ。書簡関係編。
熊本城に関係ありそうな部分を「新熊本市史-史料編近世1」からひたすら抜粋。
次節以降、「編纂史料」編、「遺構・遺物」編・「関係論文」編と続く予定。

※注意:史料読みもズブの素人なんで、とんでもない部分引用してるかもです(支城や公儀普請関係の文書も混じってる可能性あり)
誤字等含め御指摘ありましたら教えてくださいませ。

※追記
メモ:慶長11年の史料(22)、(23)は駿府城助役普請関係の可能性あり?

(1)天正一六年 後五月十五日 
豊臣秀吉朱印状 加藤清正宛 (天理大学附属天理図書館蔵)
(前略)
於肥後国領知方一廉被作拝領、隈本在城儀被 仰付候条
後略)


(2)天正十七年 十二月廿九日
加藤清正書状 加藤興三右衛門尉宛 (庄林文書)
(前略)
次来春東国へ之御出勢弥必定候、然者可取立之由可得 御意候、内々陣用意之儀可仕候、自然不出陣候者、普請之儀可申付候、何篇先日申遣候日限よりも普請可仕候、万事不可有由断候、恐々謹言


(3)天正一八年カ 二月廿六日
加藤清正書状 九鬼四朗兵衛・飯田角兵衛・下川又左衛門・近藤四郎右衛門・寺田篠介・山内甚三郎・組頭中宛 (広島大学所蔵猪熊文書)
態申遣候、此方軈而上着候、可心安候、仍其元普請之儀無油断、磊・掘念を入可申付候、万事如申置候、不可如在候、猶追々可申下候条、不能巨細候也、謹言


(4)天正一八年カ 四月廿四日
加藤清正書状 下川又左衛門宛 (中沢広勝氏蔵文書)
(前略)
態申遣候、先度のもんとう具、少もいそきのほせ候へく候事、
(中略)
一 はた(波多)へ申遣候さいもく(材木)の事、少もいそき可申候事、
一 其元石くら并ニ作事なと、ゆたん候ましく候事、
一 本丸ニおうへたて可申候、ざいもく用意させ候ておき可申候事、
一 てんしゆ(天守)へ之はし(橋)出来候や、さ候はヽ大川のはしかけさせ可申候事、
一 かうさく方之事、
一 おうへかたへしよさい候ましき事、
一 爰元ふしん大儀ニ候て、下々まてしんらうをさせ候間、其元ゆたんくせ事たるへく候、大物入ニて候間、万事其心へ尤候事、かしく


(5)天正一九年カ 八月六日
加藤清正書状 下川又左衛門宛 (下川文書)
猶以、彼材木のかたへ、奉行ニ田原ニ郎八を可相遣候、七大夫ものも上のりとして相添可遣之旨、可申遣候、
追而申遣候、其許諸侍自分之普請、家やしきをもしなをし候へと可申付候、やしきなといまた不遣候もの共も材木をこしらへ、我ら下国次第、早速ニつくり候やうに可得其意旨申付候、己上、(中略)
一 たつミの矢蔵下屋ニ、久兵衛代官分の米可納入之事、付、長蔵之北ノ一間を久兵衛・小右衛門尉ニ相渡、借米を可入置事、
(中略)
一 只今西之丸ニ立させ候蔵一間、善介に可相渡候、
(後略)


(6)天正一九年 八月一三日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (渋沢栄一氏蔵文書)
(前略)
其元作事之儀、清正下国前ニ悉出来候様ニ入情(精)可申付候、又広間作事、当春大工共ニさしづをさせ候ことく、木こしらへ候て可置候、冬中ニ出来候様ニ可申付候、少も油断候てハ可為曲事事、


(7)天正二十年カ 九月廿一日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (西村清氏蔵文書)
おほへ
(中略)
一 其元さふらいまち(侍町)、さうかまへのへいかけさせ、きとよろつ丈夫ニ可申付候、はしおも大工用意してかけさせ可申候、本丸又ハ其方まへの石かきのへい、何もかけさせ可申候、おもての門やくらの下之はしを、いかにもねんを入かけさせ可申候事、其元之さうぢ少もゆたんあるましく候事、
一 新左衛門煩候由申越候つる、いかゝに候や、煩よく候はヽ、かさねて煩候ハぬ様に、万せいを出させ候事無用ニ候、大かたの作事の用すはかり申付、ふしんふ行(普請奉行)ハミなみなねんを入可申付候、ミなみなゆたん候ゆへに、新左衛門めニきつかいをさせ、しんらうをかさねさせ、わつらわせ候間、かさねてわつらわせ、ミなみなか、ふしんふ行せいはいすへく候間、何之ふしんニハたれか内之たれとゆう事を、ねんを入かき付候て、大長(帳)ニしるしおくへし、此旨ちかへ候ハヽこ方くせ事たるへく候事、
(後略)


(8)文禄元年カ 十一月十二日
下川兵大夫書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (個人蔵)
(前略)
将又御城本丸おうへの御作事、度々被 仰遣候、きと出来候様ニと被成御意候、可被成御書候へ者、拙者より可申入之旨、御掟ニより如比候、恐々謹言


(9)文禄二年カ 六月朔日
加藤清正書状 下川又左衛門宛 (下川文書)
(前略)
一 此中仕かけたる屛・矢倉、何も作事かた之儀由断有間敷候、先度大かた申渡候つる御茶屋・御泊并隈本御座所、入間敷躰と爰元へハ相聞候条、於其辺承合、可随其事、
(後略)


(10)文禄二年カ 十月廿六日
加藤清正書状 中川重臨斎・下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (下川文書)
尚以大材木者大か引ニ可引候、小引なとハ小引をこしらへ、手伝之者ニ可申付候、惣別あなほり以下ことごとく見合、手伝之者ニ可申付候、己上
追而申遣候、去々年相詰候大工・大鋸引書付差戻候、其許参着候而十日やすませ候て、城中作事可申付候、新左衛門尉ニ相談、作料可遣候、則大工拾三人・大か引五丁差戻候、其許普請可差急候、若由断候者可令成敗候、城中之家共、手分を仕り可申付候、大ごミに仕り候者、手きわあしく候ハん間可得其意候、大工手間思ひの外入候者可為曲事候、京都以来爰許にても作事申付、悉相覚候間、得其意入年可申付候、尚重而可申遣候、謹言


(11)文禄三年 三月十二日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門・中川重臨斎宛 (速見真曹氏蔵文書)
(前略)
一 又左衛門尉まへのやしきの方角、同四方のけん并馬やをたて候由候、馬やのけん、あつきかミニ地わりをよくよく仕候て、こすへく候、此方にて指図をし候て可遣候間、家をたて候用意候へく候事、
一 其方より差越候大工参着次第、此方の大工もとすへく候、門・矢倉ノきわ・小殿主ノひろま出来候ハヽ、其ニかい三かいまて留守中ニしたて可置候、又本丸ノ北ノかわノやくら、同北かわ(側)さかり候て見え候間、こわし候て仕直へく候、いつれも塀・矢倉・本丸の家共、もり候ハぬやうニ可入情候、万手代之事ハ両人申付分、其外留守居の者、諸代官それそれニしたかひ可申付候、留守居之者共、別ニ隙の入事も有之間敷候間、夏秋の間ニ、留守居諸代官として、又左衛門尉やしきのおもてかわ、ほりをほり、どいの分、石かきニ可仕候事、
(後略)


(12)文禄三年カ 十月廿五日
加藤清正書状 中川重臨斎・下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (下川文書)
(前略)
一 城中作事之儀如前々可相立候、材木作事手伝仕候事も、前より悉入念如何様も結構ニ可仕候、おうへの小殿主のなをし所、大工甚三郎ニ申付遣候間可得其意候、尚重而可申遣候、謹言


(13)文禄四年カ 十一月廿一日
加藤清正書状 中川重臨斎・下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (下川文書)
(前略)
一 其許作事方、如何程手付候哉、小殿主、其外小広間なと、前々より結構入念可申付候事、
(後略)


(14)文禄四年カ 十一月廿八日
加藤清正書状 下川又左衛門・加藤喜左衛門尉宛 (高林兵衛氏蔵文書)
(前略)
一 其元さうかまへのへい、そこね候つる間、るすいの者、又ハ今度ち行を遣候者共ニ申付候て、かけさせ可申候、
一 あまくさ瓦、小座敷之瓦可申付候、のこる瓦共ニハはしらなとこしらへおき可申候、はるへ成候て、少かきあけさせ候て、さてへいを可申付候事、
一 城中どだい□(へい?)のふしんハ何も可申付候事、
(後略)


(15)慶長四年カ 三月廿五日
加藤家重臣連書書状 (下川文書)
尚以名之下に可有御判候、
急度令申候、御給人方人足被遣候事、去年御帰朝之刻、被成御停止候、則各へ申渡候、然処、今度御城御普請百姓相見候様申候、何と被仰触候哉、沙汰之限候、急度御改候て可承候、恐々謹言


(16)慶長四年カ 三月廿六日
加藤清正書状 加藤喜左衛門・加藤美作・加藤清六・中川重臨斎・下川又左衛門・中川唯玄斎宛 (下川文書)
(前略)普請各同前可申付候、(後略)


(17)慶長五年 十月廿四日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (京都大学文学部博物館蔵)
(前略)
次又左衛門尉立候ひろま并小台所可差急候、かべなとぬり候事不成候者いかやうにも付て、先畳を敷候様ニ可仕候、如水御通候刻振舞度候、謹言 


(18)慶長五年 十月廿六日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (中澤広勝氏蔵文書)
(前略)
一 如水其元被通候者、新城ニ而振舞候て可然候間、得其意、天守之作事差急、畳以下可取合候、小台所たて候へと申付儀ハ、こもはりにても不若候、小座敷之畳をも仕合候へと可申付候、猶追而可申遣候、
(後略)


(19)慶長五年 十一月十八日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門宛 (群馬県立歴史博物館蔵)
(前略)
其元普請之儀不及申候へ共可指急候、へいを塗候之事ハ相やめ、うらおもてより、こもにてつゝミ可申候、謹言


(20)慶長九年カ 七月十日 
加藤清正書状 石川備後宛 (名古屋市博物館蔵)
(前略)
次其元作事出来之由承候、誠ニ精ニ被入候故と令満足候、
(後略)


(21)慶長十年カ 八月八日
加藤清正書状 飯田角兵衛宛(猪熊信夫氏旧蔵文書)(市史研究くまもと第5巻 森山恒雄「肥後加藤政権と重臣飯田角兵衛(-)」より)
為在洛見舞、使者指上せ、殊銀子壱枚到来、祝着之候、其許普請之絵図指越候、被見候、頓而令下国候間、可得其心候、謹言、



(22)慶長十一年カ ニ月十七日
加藤清正書状 飯田角兵衛宛 (個人蔵)
 就祝言之儀、鰹十連到来祝着候、其地普請番等無油断之由尤候、以情を入可申付事肝要候、猶吉村勝太可申候、謹言


(23)慶長十一年カ 五月廿一日
加藤清正書状 吉村橘左衛門尉宛 (吉村文書)
 為端午之儀、使者を差上、殊帷弐ツ、鰹十連到来悦入候、其元普請皆々精を入、令出来之旨得其意候、弥留守中弥心付簡要候、尚蟹江主膳可申候、謹言 


(24)慶長十一年カ 七月十三日
加藤清正書状 吉村橘左衛門尉宛 (吉村文書)
(前略)此分罷登者共作事等ニ令辛労躰に候、其元普請、皆々可入精事尤候事、猶追而可能申下候、謹言


(25)慶長十二年カ 卯月廿四日
加藤清正書状 並河金右衛門尉・吉村橘左衛門尉・和田勝兵衛宛 (吉村文書)
態申遣候、其地普請如何申付候哉、漸出来之時分ニ候間、様躰無心元候て申遣候、天守之井出ハ、よきほとニ石垣につかへ候ハて出来候哉、様子無心元候、此月相之時分不図可相越候処、いつれも油断仕間敷候、(後略) 


(26)慶長十二年カ 七月廿ニ日
加藤清正書状 中川寿林方・下川又左衛門・土木土佐宛 (下川文書)
(前略)
一 本丸広間之絵、国之絵書迄にてハ遅く候由候、平右衛門尉ハ居候ハぬ哉、平右衛門尉ニ頭取をさせかゝせ、手代之ものすくなく候て、はか不行候ハヽ、上かたより手代之もの呼下可申候、此方へ申越迄も無之事ニ候、国之絵書ニ絵出しをさせ、大事之広間ニ而候に、やくにたち可申候哉、
(中略)
一 花畠作事、留守中番等油断之由尤候、尚追而可申下候、謹言 


(27)年代不明 ニ月八日
加藤清正書状 加藤喜左衛門尉宛 (個人蔵)
(前略)
一 本丸作事、無由断可申付候事、
一 たやへ屋之畳いかにもいかにも念を入さし候へと可申付事、
一 女房達へやの畳おもてかへのなり候やうに、下地ニ念を入候へと可申付候、そさうニさし候て、おもてかへならす候へハ、小利大損モ候間、其心得候て、可申付候事、
一 畳之儀申付候し指図にて、其家の間々の畳さんかうを仕候て、久右衛門ニ合点させ候て、畳之儀可申付候、猶下川善太夫可申候、謹言



  1. 2012/08/23(木) 23:19:03|
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